アラスカの大自然の中で武道する毎日を雑記


by alaskakendo
アラスカ剣道クラブは毎週土曜日にフリーの地稽古セッションを行っている。

2018年2月17日、そのセッションにある男が現れた。

20年ほど前にアリューシャン列島の離島の町に教師として転任していった剣道の生徒だ。
若くてエネルギッシュだった彼は、多少白髪は増えたけれども、その熱いエネルギーに満ちたところは変わらないままだった。

そして剣を交えた瞬間、それが証明された。
その時の稽古の模様の一部はユーチューブで紹介しよう:https://www.youtube.com/watch?v=EZ-qoW4zgqk&feature=youtu.be



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かの地でも独りで稽古を続けていたという彼は、左義手を見事に使いこなして、段レベルの稽古を披露してくれた。


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そして昨年の夏、教師としては最高レベルの校長先生として再びアンカレジに戻ってきたというのである。

彼の剣の師としては誇りであり、独り感動しているのであった。
と同時に、自分もジジイレベルが上がってきた、と独り複雑な思いに駆られるのであった。




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# by alaskakendo | 2018-02-20 06:28
アラスカ剣道クラブは毎週土曜日にフリーの地稽古セッションを行っている。

2018年2月17日、そのセッションにある男が現れた。

20年ほど前にアリューシャン列島の離島の町に教師として転任していった剣道の生徒だ。
若くてエネルギッシュだった彼は、多少白髪は増えたけれども、その熱いエネルギーに満ちたところは変わらないままだった。

そして剣を交えた瞬間、それが証明された。
その時の稽古の者用の一部はユーチューブで紹介しよう:https://www.youtube.com/watch?v=EZ-qoW4zgqk&feature=youtu.be



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かの地でも独りで稽古を続けていたという彼は、左義手を見事に使いこなして、段レベルの稽古を披露してくれた。


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そして昨年の夏、教師としては最高レベルの校長先生として再びアンカレジに戻ってきたというのである。

彼の剣の師としては誇りであり、独り感動しているのであった。
と同時に、自分もジジイレベルが上がってきた、と独り複雑な思いに駆られるのであった。




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# by alaskakendo | 2018-02-20 06:28
あるスポーツジャーナリストの知り合いからこんなメールをもらいました。剣道を修行している人は是非記事を読み、ブログを読み、その中にある動画を見てご意見をお聞かせください。

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安藤様、

ご無沙汰しております。
今、「剣道の誤審」に関し、調べております。
すると、こんな記事にぶつかりました。

http://www.sankei.com/premium/news/151004/prm1510040010-n1.html

連盟に問い合わせたところ「流れからして明らかな判定、相手の監督も納得していた」とのことでした。
安藤さんから以前「剣道に誤審はない」というような内容の話をうかがい、興味をもって調べたところ、このような記事にぶつかりました。

この記事の言っていることも一理あるかと思うのですが、安藤さんは、どう思われますか?
もしご興味があれば、少し、ご教授といいますか、ご意見をたまわることができればと思い、ご連絡させていただきました。
勝手なお願いで申し訳ありません。

じつは、こんなブログがあります。この中で、映像も確認できます。
http://kendo-zakki.net/?p=822

安藤さんが「剣道に誤審はない」と言ったのは、剣道は武道であり、本来、勝ち負けに終始するものではないので……といった内容ではなかったでしょうか。

私としては、サンケイ新聞の記事内容も一理あるのでは、と思ってしまうのですが……。
******************

それに対して、私は以下のような説明をお送りしました。


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こんにちは。

ビデオ拝見しました。

わたしは基本的にはこの甚之助さんの意見に賛成です。

そしてさらに私は、この合議を要請した審判(副審)を立派だと思いました。

私の試合のこの打突の部分の感想は、「胴を打った選手、せっかく良い機会をとらえていい胴を打ったのに、なんで打突直後に勢い余ったように時計回りにくるりと回って相手に背中を見せて相手と一緒に移動するようなおかしな行動をしたのか。あ〜あもったいない。」というものです。

胴を抜いた後、そのまま前進して抜けて行き、数歩進んだところで左側に回って、相手に竹刀を向けて残心を示せば、完璧に一本として完成されていたのに、打ちっぱなしになってしまった。だからこれは一本とは認められなかったということです。

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わたしは野球をよく知らないので良い例えではないかもしれませんが、例えば野球だったら、ホームランを打ったのに浮かれて最後のホームベースを踏まないでベンチに帰ってしまったみたいな感じでしょうか(その場合はその選手はアウトになり得ますか?ホームランは無効になり得ますか?)。
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しかし、旗が3本きれいに上がってから、このように合議を要請し、一本の宣告を取り消すというのは審判員としては大変勇気のいるものです。しかし、試合の内容をより高いレベルのものにするには、審判員はこうでなければならないのだな、こういう審判の仕方は確かに必要なのだ、ということをこのビデオから学ぶことができました。ですのでこの学びの機会を与えてくれて、大変感謝しております。

ということで、これは誤審と呼ぶことはできないと私は思います。それは一度一本とされた判定が、明確な意思を持って覆されて取り消されたものだからです。

むしろ、これを誤審と呼んでしまう記者さんには、記事を書く前にもう少し剣道を学んでから、または剣道審判法をよく知っている人にきちんと検証してもらってから記事を発表してほしかったと思います。

あと、もう一つ剣道のわかりにくい点なのですが、普通のスポーツ観戦と剣道の試合の観戦の違いの一つに、審判が反則などに関して説明する必要がないことがあります。相撲やアメフトでは審判の判断を観客に向けてマイクで説明する場面がありますが、それは試合の目的のひとつが観客に見せることにあるからだとおもいます。でも、剣道の試合はそういった目的にはないので、説明はありません。実際に後半で両者に反則が宣言されましたが、何の反則かは説明されていませんし、剣道を知らない人にはなんで反則なのかはきっとわからないと思いますし、さらにはよく剣道を知らない人ですと審判が反則の宣言をしたということさえもわからないかもしれません。

剣道の試合はわかりにくいと言われます。そして一本の判定はもっとわかりにくいと言われます。確かにそうです。それは剣道の大会のレベルによって一本の基準が変わることや、各審判の判断基準の違いなどもあります。なので、同じ動作で行った打突でも、状況によって一本だったりそうでなかったりすることもあり得ます。「わかりにくいからよくない」という意見は一般的によく聞きますが、わたしには「わかりにくいのはそれだけ奥が深いからだ」と思えるのです。

竹の棒を持ち、タイヤ(打ち込み台)に向かって雄叫びをあげ、一心不乱にバシバシ叩くなどという一見アホみたいなことを、社会的地位のあるいい大人がやっているのです。日本なら「剣道」と理解してくれるかもしれませんが、アラスカでは「何子供みたいにアホなことやってるんだ?」と思われるのがオチです。だから打ち込みの稽古は人の見ていないところでしかできません。

というように、一見アホみたいに見える行為に深い意味が隠されていても、それを知らない人には見えないし、理解は難しいと思います。

「そんな不透明なものは簡素化するべき」、「もっと一般にもわかりやすくするべき」という意見もたまに聞きますが、そういっているのは剣道をよく知らない人に多いと思います。剣道の有効打突の見極めが、そのように簡単にできるものであるとしたら、たぶんそれは剣道ではないです。つまりそれは剣道の打突の深い意味がなくなった、ただの打ち合いや当てっこ競技だと思うのです。

だから対象を簡素化するのではなく、反対に、その対象を観察する人が自分の見る目を磨き、理解を深めて行き、本質を見極められるようになるように努力する以外に、本当はどうなのかを理解することはできないのではないかと思う次第です。

たかが剣道なのに、大上段に振りかぶった物言いをしてしまい、大変失礼かもしれませんが、とりあえずまずは以上私故人の感想を申し上げます。
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剣道を知っている人はもちろん、知らない人たちにとっても少し興味深い話なのではないかと思ってアップしました。
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# by alaskakendo | 2017-02-03 17:11
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遥か遠く日本を離れ、この地で武道を稽古する身においては、師に観てもらえることはない。より高いレベルを見ることができるように鍛えて、自らの目を鍛えることが必要である(前回記載の「真実を見極める目」も是非参考にしてください)。




朝の稽古日には独りだけ先に道場に行き、ビデオを使って自らの稽古を撮影する。撮影中も撮影中であることを忘れるくらい集中して稽古をし、自宅に戻ってからじっくりと観察する。先生のビデオを観て、自分の動きと比べ、何が違うかを探ろうとする。
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演じているときの自分の心を振り返り、演武の際の動きが鈍って見える部分を発見した時、自分がどのような気持ちでいたかなども反省する。


居合は「動く禅」と呼ばれることがある。

戦いを坐禅をしているときの心境で行うことができるのだとしたら、それはもはや人間業ではない。

しかし不動心の境地、明鏡止水の心を得るためには、人間を超える心境を目指さなければ、辿り着けるものではない。

不可能なことを求め、敢えて努力精進するところに意義があるのだ。



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このような土地にいることで、技術力が上がる度合いには大きなハンディがあるが、いつもハングリーな心を保ち、より濃い稽古時間を自ら作り出すためには理想的な場所なのである。

剣道の稽古、居合の稽古というよりも、
「剣を修行している」ということを実感する時間なのである。
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# by alaskakendo | 2015-08-17 04:06
『神との対話』を著したニール・ドナルド・ウォルシュは、魂の関心事は唯一つ、『あなたがどこへ行くか』と言う事だけだ、と言う。同じ資質を持った二人が成功するか否かは「している事」ではなく「在り方」にあると言う。つまりより高い存在を目指せと言う事なのではないか。




彼の言にも「存在は存在を引きつけ、経験を生む」とある。つまり自分の存在価値が増せば、同レベルの存在が身近になると言う事だ。言い換えると、友人や異性を含めたすばらしい人間に巡り会うにはまず自分を磨けと言う事にもなるだろう。

真実は目の前にあっても、それを見るための目が開かれていない。だから『自分に分かる真実』しか人は認識できないので、それを求めてしまう。真実を見つけるためにはそれを見る目を養う事が必要なのだ。答えを求めているものは多いが,それらの答えを既に知っているものも多くいるはずなのである。自分がどちらにいるか明確に分からない人は前者であると考えて間違いはない。真実を求めるのであればその目を養うために自分を磨かなければならない。

仮に身体、心(精神)、と魂(生命)の三位一体が人間と考えるとする。心には頭脳も含まれるとする。そしてそこに知性と感性がある。心で感じるのは感性、頭で考えるのが知性であり、心が欲望(感情)で満たされると感性が鈍るので、知性(理性)でコントロールする必要が出て来るが、心が純粋なまま修行をして感性を高めれば、正しい方向に進むことができ、同時に知性のレベルもアップするのだと思う。

沢庵禅師の『不動智神妙録』にある「修行というのは、生まれたままの心に悪い癖をつけないことである」と言うのも、ここにそのまま当てはまるのではないかと思うのだ。




感性を高めるには武道がよい。『相手の意図』を読む感性を身につけるために道場で稽古したり、自然の中で稽古鍛錬をする事などが、呼吸をゆっくりにして体の力を抜き、小さな音を聞くようにするなどして心を内から外にリリース(集中)することになる。



自分を知り相手を知れば百戦して危うからずと言うが、桜井章一という勝負師は、相手のことを知ろうとした事が無く、むしろ自分を知ることに努めたと言っていた。自分の弱さを知った時、他人の弱さも本当の意味で理解できる。それが『相手を知る』事に繋がる。自分を見つめて行く過程に必ず他者の存在がある(感謝)。感謝とか相手を敬う気持ちは武道の本質に直接繋がっているのだ。

武道は武術と言う殺人技術に礼法、残心と言うコンセプトを組み込み、「道」に昇華させ、柳生新影流で言う所の『活人剣(殺人刀:せつにんとうからの昇華)』という思想を生み出した。

このことは武道家・アレック・ベネット氏により『武道のパラドックス』と呼ばれている。

まさにその通りであり、さらにその考えを推し進めて行くと、武道の究極の目的である『絶対不敗』は『戦わない』と言う事にあると言う所に行き着くのが分かる。

例えば剣道において相手に対する時、生死をかけて立ち向かう場合に、むやみに打って行く事は一番避けるべき事となる訳だが、稽古の時は打って打って打ちまくる所からより技術を上げて行く過程を踏む事で、打つべき機会や打つための様々な要素を学び、打ち数を徐々に少なくしてクオリティを高めて行くという方法がある。

その上で最後には無駄な打ちを無くし、相手の出る所を押さえ、攻めて来る所を攻め返し、相手が打って出られない状態に抑えると言う技術を身につける。その中には『打てば勝てる状態でも敢えて打たない』という選択肢も含まれている。そしてお互いがそのレベルの極みにある場合、お互いが打って出られない状態に置かれることになる(打ちに出ると言う事は構えを崩すと言う事であり、そこに一瞬でも好きが生まれると言う事になるので、打ちに出れば打たれてしまうと言うパラドックスがある)。

であるから武術を昇華させた、武道の究極『絶対不敗』は、つまり『戦わない(対峙しても打たない)』と言う所に至る。これこそが武道のパラドックスであるということになる。

果たして絶対不敗の境地に達した古の剣聖たちはそこにどのような真実を見ることができたのであろう。

「それを見極めたい、その境地をほんの片鱗で良いから感じたい」、それが私の武道修行の根源的な動機である。



b0241736_05436.jpg真実を見極めることができる目を養い、より高い存在たりえるために、今日も感謝と敬愛の心を忘れず、修行あるのみ。
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# by alaskakendo | 2015-06-25 01:02