アラスカの大自然の中で武道する毎日を雑記


by alaskakendo

剣道における刀と剣の違い

b0241736_10371142.jpg剣道と言う名は、どうしてつけられたのかと言う質問があった。

刀は片刃、剣は両刃であるから、日本の剣道は本来「刀道」とするべきであるという考えに基づいての質問のようであった。

その考えに沿って名付けるとすれば現代剣道のほとんどは刀道ではなく、むしろ竹刀道という名が正しいことになる。

であるからもちろん、このような表面的現象を捉えて名付けられたのではない事は明白である。





まず翻って、上記の様な事は百も承知であった名人、達人たちが、何故これを剣道と名付け、その説明などもしていないのか。

それは彼らに取って、この事は自明の理であり、また、決して説明されるべきものではなく、自得するべきものであるからであり、本来であれば説明される事自体が、敢えて「剣道」という名をつけた先人たちの狙いに反する事になると思うのだ。

しかしここアメリカで、それを自得できる者はほとんどいない。だから敢えてその禁に反して自らの考察を述べたい。

以下はあくまでも修行途中段階の剣士の一考察である。

剣術とは言うが、刀術とはあまり聞かない(刀法とはいう)。それは刀を武器と捉え、剣を思想と考えるからではないのか。刀は実相、剣は無相である。

例えば新陰流では「殺人刀」「活人劍」と分かり易く「刀(武器)」と「剣(心)」を区別して捕えているし、一刀流の極意にも秘太刀(剣技)を「仏捨刀」、それを使う者の奥義的悟りを「夢想劍(無相劍)」と呼ぶことにより、「刀」と「剣」を区別していると私は理解している。

刀はその操法の熟達とともに、体を鍛える道具であり、剣は刀を遣って心を練るための強い意志力(思想、心構え)である。

「刀」をあくまでも実相のもの、現実に存在する武器であるとし、「劍」をその理を追い求める道と考え、その修行の目的を究極の極意探求の末に至る心としたからこそこれを「剣道」と 名付けたのではないか、と考えるのである。

刀でなく剣という捉え方をしている限り、剣道は単なるスポーツや武技に収まる事なく、禅の修行をはじめとする体を使って心を練る修行となり、思想、哲学という側面を持つ事が可能となる。


そのような想いが「剣道」の「劍」には込められているのではなかろうか。

それだからこそ、日々の稽古の際には、この想いを抱いて臨まなければ、真に剣道の修行とは言えないと思う次第である。

その想いを持って「修行あるのみ」。
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by alaskakendo | 2013-02-09 10:38