アラスカの大自然の中で武道する毎日を雑記


by alaskakendo

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『神との対話』を著したニール・ドナルド・ウォルシュは、魂の関心事は唯一つ、『あなたがどこへ行くか』と言う事だけだ、と言う。同じ資質を持った二人が成功するか否かは「している事」ではなく「在り方」にあると言う。つまりより高い存在を目指せと言う事なのではないか。




彼の言にも「存在は存在を引きつけ、経験を生む」とある。つまり自分の存在価値が増せば、同レベルの存在が身近になると言う事だ。言い換えると、友人や異性を含めたすばらしい人間に巡り会うにはまず自分を磨けと言う事にもなるだろう。

真実は目の前にあっても、それを見るための目が開かれていない。だから『自分に分かる真実』しか人は認識できないので、それを求めてしまう。真実を見つけるためにはそれを見る目を養う事が必要なのだ。答えを求めているものは多いが,それらの答えを既に知っているものも多くいるはずなのである。自分がどちらにいるか明確に分からない人は前者であると考えて間違いはない。真実を求めるのであればその目を養うために自分を磨かなければならない。

仮に身体、心(精神)、と魂(生命)の三位一体が人間と考えるとする。心には頭脳も含まれるとする。そしてそこに知性と感性がある。心で感じるのは感性、頭で考えるのが知性であり、心が欲望(感情)で満たされると感性が鈍るので、知性(理性)でコントロールする必要が出て来るが、心が純粋なまま修行をして感性を高めれば、正しい方向に進むことができ、同時に知性のレベルもアップするのだと思う。

沢庵禅師の『不動智神妙録』にある「修行というのは、生まれたままの心に悪い癖をつけないことである」と言うのも、ここにそのまま当てはまるのではないかと思うのだ。




感性を高めるには武道がよい。『相手の意図』を読む感性を身につけるために道場で稽古したり、自然の中で稽古鍛錬をする事などが、呼吸をゆっくりにして体の力を抜き、小さな音を聞くようにするなどして心を内から外にリリース(集中)することになる。



自分を知り相手を知れば百戦して危うからずと言うが、桜井章一という勝負師は、相手のことを知ろうとした事が無く、むしろ自分を知ることに努めたと言っていた。自分の弱さを知った時、他人の弱さも本当の意味で理解できる。それが『相手を知る』事に繋がる。自分を見つめて行く過程に必ず他者の存在がある(感謝)。感謝とか相手を敬う気持ちは武道の本質に直接繋がっているのだ。

武道は武術と言う殺人技術に礼法、残心と言うコンセプトを組み込み、「道」に昇華させ、柳生新影流で言う所の『活人剣(殺人刀:せつにんとうからの昇華)』という思想を生み出した。

このことは武道家・アレック・ベネット氏により『武道のパラドックス』と呼ばれている。

まさにその通りであり、さらにその考えを推し進めて行くと、武道の究極の目的である『絶対不敗』は『戦わない』と言う事にあると言う所に行き着くのが分かる。

例えば剣道において相手に対する時、生死をかけて立ち向かう場合に、むやみに打って行く事は一番避けるべき事となる訳だが、稽古の時は打って打って打ちまくる所からより技術を上げて行く過程を踏む事で、打つべき機会や打つための様々な要素を学び、打ち数を徐々に少なくしてクオリティを高めて行くという方法がある。

その上で最後には無駄な打ちを無くし、相手の出る所を押さえ、攻めて来る所を攻め返し、相手が打って出られない状態に抑えると言う技術を身につける。その中には『打てば勝てる状態でも敢えて打たない』という選択肢も含まれている。そしてお互いがそのレベルの極みにある場合、お互いが打って出られない状態に置かれることになる(打ちに出ると言う事は構えを崩すと言う事であり、そこに一瞬でも好きが生まれると言う事になるので、打ちに出れば打たれてしまうと言うパラドックスがある)。

であるから武術を昇華させた、武道の究極『絶対不敗』は、つまり『戦わない(対峙しても打たない)』と言う所に至る。これこそが武道のパラドックスであるということになる。

果たして絶対不敗の境地に達した古の剣聖たちはそこにどのような真実を見ることができたのであろう。

「それを見極めたい、その境地をほんの片鱗で良いから感じたい」、それが私の武道修行の根源的な動機である。



b0241736_05436.jpg真実を見極めることができる目を養い、より高い存在たりえるために、今日も感謝と敬愛の心を忘れず、修行あるのみ。
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by alaskakendo | 2015-06-25 01:02