今回、テキサス州、ヒューストンでの剣道七段審査は残念ながら不合格であった。
審査を終えた時点では、なんとかうまく行ったのではないかと内心思っていた。ただ、うっかり引き出されて、不本意(中途半端)な打ちを出してしまったことだけが悔やまれた。
而してその結果は「七段合格者ゼロ」だった。。敢えなくヒュー、ストンと落ちてしまったというわけである。
「なぜ不合格だったのか」
「演武は完璧ではなかったにしろかなりいい線行っていたのではないか」
疑問は残る。
「他の受審者と比較しても良い出来だった」と感じていただけに、
悔しさも強く残った。
今回なぜ合格できなかったのだろう・・・・・・・。
真剣に自分の剣道と当日の演武を考えてみた。
************************
不合格になったからこそこうやって真剣に考えるに至った訳だが、
合否に関わらず、
というか特に「合格してさえも、真剣に反省する程の心のレベル」
に達していなければ、
到底達する(合格する)ことができないレベルに自分が挑戦しているのだ,
と言う事を本当の意味で自覚していなかったことが今回の失敗の最大の原因だったのではないかと思うに至った次第である。
つまりこのレベルになる覚悟ができていなかったと言う事だ。
七段は六段までとは違い「受かったらいいな〜」程度の気持ちでは受審することさえはばかられると言えるのだ。まあもちろんその事実を自覚するためになるのであれば、一度は不合格になる事も避けることができない道だったのだろう。
常に失敗から学んできた自分にとっては初挑戦の不合格は必然と言えるのだが、困った事に次のレベルにランクアップするには「失敗から学んでいるようではダメだ」と言うことになる。
剣聖宮本武蔵は「我事に於いて後悔せず」とおっしゃるが、自分は「事に於いて、常時後悔、反省する」ことで物事を見れるようになって来た凡才である・・・・。
そんな自分がどうしたらそのような高いレベルに達する事ができるのか。
さらに深く考えてみた。
剣道に於ける品位風格は自身の普段の人柄ではなく(それも多少はあると思うが)、「剣を持ってからの目的意識により決められるのではないか」ということである。
要するに「相手を打ってやる」と言う気持ちが強ければ、そこにはあまり見るべき品位風格が無いと言うことになる。
剣道で良く言われる「打って反省、打たれて感謝」という言葉の前半は、通常「打てたとしても、それをもっと改善するにはどうしたら良いか」と反省するという理解がされているが、さらに上のレベルに於いては「あの機会に於いて打って本当に良かったのだろうか」と言う内容の反省をしなければならないと言う事ではないのか。
「打つべき機会」を追求すれば自ずとこういう反省の仕方をするようになり、無駄打はできなくなる。
そう、「しなくなる」のではなく「できなくなる」のだ。
と言う事は、例えば一本となり得る打が入ったとしても、そのレベルに於いては「無駄打」と言える一本もあることになる。
それがまさに今回の審査での自分の打ちだったと自戒している。
「強引な、自分本位なスピードに頼った当てっこ」
これを諌め、
「正しい機会に、当てることなしに、打ち切ることができるようになるにはどうするべきか」
まるで仏道修行の公案のようだが、これが実践できるようにならなければ次のレベルへの到達は無理であろう。
では「打ってやる」という気持ち無くすにはどうすべきなのか。
そして「打つ」と言う気持ちなしで「打ち切る」ことができるようになるにはどうすれば良いのか。
まだぼんやりとしかその答えが分かっていない。
果たして理解できるようになるのだろうか。
それは今後の自分次第だ。
しかし,今分かっているのはそれが分かれば次のレベルに達することができるのだということである。
そしてその延長に「向こう側(のレベル)」に行くためのヒントが隠されているに違いないのだ。
修行は続く・・・。
「合格して反省。不合格で感謝」
今回の審査の動画
http://www.youtube.com/watch?v=vGyINmwTsg0
https://www.youtube.com/watch?v=cEunELpk_SE
(恥ずかしいのでシェアしないでくださいね)
審査を終えた時点では、なんとかうまく行ったのではないかと内心思っていた。ただ、うっかり引き出されて、不本意(中途半端)な打ちを出してしまったことだけが悔やまれた。
而してその結果は「七段合格者ゼロ」だった。。敢えなくヒュー、ストンと落ちてしまったというわけである。
「なぜ不合格だったのか」
「演武は完璧ではなかったにしろかなりいい線行っていたのではないか」
疑問は残る。
「他の受審者と比較しても良い出来だった」と感じていただけに、
悔しさも強く残った。
今回なぜ合格できなかったのだろう・・・・・・・。
真剣に自分の剣道と当日の演武を考えてみた。
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不合格になったからこそこうやって真剣に考えるに至った訳だが、
合否に関わらず、
というか特に「合格してさえも、真剣に反省する程の心のレベル」
に達していなければ、
到底達する(合格する)ことができないレベルに自分が挑戦しているのだ,
と言う事を本当の意味で自覚していなかったことが今回の失敗の最大の原因だったのではないかと思うに至った次第である。
つまりこのレベルになる覚悟ができていなかったと言う事だ。
七段は六段までとは違い「受かったらいいな〜」程度の気持ちでは受審することさえはばかられると言えるのだ。まあもちろんその事実を自覚するためになるのであれば、一度は不合格になる事も避けることができない道だったのだろう。
常に失敗から学んできた自分にとっては初挑戦の不合格は必然と言えるのだが、困った事に次のレベルにランクアップするには「失敗から学んでいるようではダメだ」と言うことになる。
剣聖宮本武蔵は「我事に於いて後悔せず」とおっしゃるが、自分は「事に於いて、常時後悔、反省する」ことで物事を見れるようになって来た凡才である・・・・。
そんな自分がどうしたらそのような高いレベルに達する事ができるのか。
さらに深く考えてみた。
剣道に於ける品位風格は自身の普段の人柄ではなく(それも多少はあると思うが)、「剣を持ってからの目的意識により決められるのではないか」ということである。
要するに「相手を打ってやる」と言う気持ちが強ければ、そこにはあまり見るべき品位風格が無いと言うことになる。
剣道で良く言われる「打って反省、打たれて感謝」という言葉の前半は、通常「打てたとしても、それをもっと改善するにはどうしたら良いか」と反省するという理解がされているが、さらに上のレベルに於いては「あの機会に於いて打って本当に良かったのだろうか」と言う内容の反省をしなければならないと言う事ではないのか。
「打つべき機会」を追求すれば自ずとこういう反省の仕方をするようになり、無駄打はできなくなる。
そう、「しなくなる」のではなく「できなくなる」のだ。
と言う事は、例えば一本となり得る打が入ったとしても、そのレベルに於いては「無駄打」と言える一本もあることになる。
それがまさに今回の審査での自分の打ちだったと自戒している。
「強引な、自分本位なスピードに頼った当てっこ」
これを諌め、
「正しい機会に、当てることなしに、打ち切ることができるようになるにはどうするべきか」
まるで仏道修行の公案のようだが、これが実践できるようにならなければ次のレベルへの到達は無理であろう。
では「打ってやる」という気持ち無くすにはどうすべきなのか。
そして「打つ」と言う気持ちなしで「打ち切る」ことができるようになるにはどうすれば良いのか。
まだぼんやりとしかその答えが分かっていない。
果たして理解できるようになるのだろうか。
それは今後の自分次第だ。
しかし,今分かっているのはそれが分かれば次のレベルに達することができるのだということである。
そしてその延長に「向こう側(のレベル)」に行くためのヒントが隠されているに違いないのだ。
修行は続く・・・。
「合格して反省。不合格で感謝」
今回の審査の動画
http://www.youtube.com/watch?v=vGyINmwTsg0
https://www.youtube.com/watch?v=cEunELpk_SE
(恥ずかしいのでシェアしないでくださいね)
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by alaskakendo
| 2013-11-15 05:21